中学受験で慶應を選ぶなら、避けては通れないのが福沢諭吉。
例え試験や面接で出なくても、慶應に入ったら嫌でも勉強することになります。
息子も塾で福沢諭吉について学んでいましたし、やっぱり必要なんですね。
そこで今回は、福沢諭吉とは一体どんな人だったのかを書いていきます。
1回では書ききれないので、何回かに分けてお伝えしていこうと思います。
ぜひ福沢諭吉と福沢諭吉の教えについて、学んで下さいネ!
あ、私のブログのアップなんか待てない!という方は、こちらの本をどうぞ(笑)
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慶應では「先生」と呼べるのは福沢諭吉だけ!なんて教えがあるそうです。
実際息子は、学校の先生を「さん」づけで呼びますし、OBの中には非常に尊敬している人もいます。
しかし福沢諭吉が存命中、今ほど神格化されていなかったようです。
北岡伸一著「独立自尊」には、福沢諭吉の意外なエピソードがたくさん紹介されています。
当時は福沢諭吉自身、教壇に立って教えていたそうですが、「大あぐらをかいて、太いキセルで煙草をふかしながら講義し、その恰好はまるで山賊のよう」などと紹介されています。
しかも福沢諭吉の講義は(この態度のせいか?)出席者がどんどん少なくなり、1~2年で終わりとなったらしいです(笑)
また、慶應で模擬国会が開かれたことがあったそうですが、議長の福沢諭吉が、途中から議員の発言を遮って自説を述べ出すという始末。
ある塾生は議長が勝手に放言するのは議事法違反だ!と食って掛かったところ、「君たちが思ったことを言えないから、私が補ってやっているのだ」とやり返す一幕もあったらしく、はなはだ評判が悪かったとのこと。
つまり福沢諭吉は初期の頃は尊敬されていたというよりは、「共に学ぶ仲間」みたいな感じだったんですね。
ちなみに日本で初めて授業料という制度を作ったのは福沢諭吉です。
それまでの私塾では、入学時やお盆、暮れなどに先生に心づけを渡すくらいで、定期的にお金を払うというシステムではありませんでした。
しかし福沢諭吉は「仕事をしているのにカネをもらって不都合なことがあるか!」と授業料を徴収したというのです。
福沢諭吉の合理性が表れていた、とも言えますね。
激動の時代を生きた福沢諭吉は、多くの歴史的な偉人と交流を持っていました。
福沢諭吉がはじめてアメリカへ行ったのは咸臨丸に乗ってですが、その艦長はご存知、勝海舟です。
しかし勝海舟は船酔いでのたうち回っており、諭吉はへっちゃらだったというから面白いものですね。
そのせいか、諭吉と勝海舟の関係は、あまりいいものではありませんでした。
身分もかなり違っていたことも理由の一つかもしれません。
勝海舟の最も偉大な業績である「江戸城無血開城」についても、その勝の姿勢について「勝敗の分からないうちに自ら白旗をあげた行動は、日本武士の精神にもとるものではないか」(『福沢諭吉 しなやかな日本精神』)と批判しています。
一方、大河ドラマ「西郷どん」の主人公、西郷隆盛と諭吉は面識がありませんでしたが、かなり評価していたようです。
西南戦争のあと、新聞や世論が一斉に西郷を「賊臣」として非難しましたが、福沢諭吉は強烈に反論し、擁護する論陣を張りました。
逆に福沢諭吉と同じようにお札に描かれたこともある伊藤博文とは、政治に関する考え方や立ち位置が異なることから対立していたようです。
そして現在「早慶」と言われ、何かと慶應のライバルとされる早稲田大学の創始者・大隈重信とは、盟友とも言える間柄でした。
慶應の財政基盤がぜい弱な際には、大隈に資金の相談をしたほどなのです。
ちなみに、初めての野球の早慶戦は、現在の慶應中等部生が体育の授業などで使っている「綱町グラウンド」で行われました。
現在、様々な部活の活動場所として活気があるので、通りかかったら見学してみるのもいいですね!
[…] 「意外と知らない福沢諭吉」でも紹介したように、大隈重信と福沢諭吉はとても仲が良かったそうで、こうした理念も通じるところがあるんですね! […]